ヒト故に、

佐々木は佐々木で在り、ヒトでは無い。

上手くいかないことも在る。

馬鹿馬鹿しいなぁ、と呟いた。

 

それは他でもない同居人が吐いた自分自身への言葉である。

 

一つ一つに泣いて、笑って、一喜一憂することも。人に気を遣う自分も。悩んで頭を抱えている自分も。自己理解を試みて自己否定に走る自分も。夢を見ては絶望を繰り返すことも。小さなことに疑問を持つ自分を。

 

その行動言動、全てに嫌気が差した。

 

きっと疲れているんだ。佐々木が宥めて。

休んだ方が良いと、同居人も判っていて。

 

それでもやるべき事が積もって、やりたい事が止まらなくって。

 

焦り癖があることも承知の上、ゆっくりゆっくりとマイペースに行くべきであると頭では言い聞かせているらしい。

 

それでも足は止まらなくって。

 

同居人は心の病気だ。

 

また息が出来なくて、水の中に溺れた感覚に陥る。頭で判っていることが、心では判らなくて身体が追いつけない。何処かが悲鳴をあげているのか、何の感情も無く涙が出る。

 

感情が消える。

 

生きている事にもう疲れた。何度も何度も聞き飽きた台詞をまた呟く。

 

それでも絶つ気力すら無いことを佐々木には判っていて、同居人には勇気もなくて。

 

「自分には存在価値が無い。だけど絶つことすら、周りの人に迷惑がかかるのだよ。」

 

嗚呼、馬鹿馬鹿しい。

また冒頭へ戻る次第である。

 

何故人間はこうも上手くいかない?

何事も谷がある?

 

 

佐々木には判らない。

命が必要である。

床に這いつくばってどのくらい時間が経っただろう。

 

少し瞬きをしただけで時計が三時になっていたらしい。

一瞬、目を閉じただけだった、と。

それを世では寝落ちと云うのだ。ツッコミは抑えた。

 

もうそのまま自室へ行く気力も無く、その場で寝たらしい。この真冬じゃ風邪をひくと云う声も無視して。

 

朝日で目を覚ますも、また突然世界が変わったように空が明るくなっていたようで。

 

感情も無く、食欲も無く、只只空虚を眺めていた。

 

疲れが溜まったのだろうか。

薬を一日飲み忘れただけでこうも機能が停止するのだろうか。

 

人間という生物は不便である。

 

身体が必要だ。心臓が必要だ。思考が必要だ。判断が必要だ。心が必要だ。

 

命が、必要だ。

 

何故人間はこうも動く為に、生き続けることに、必要なことが多いのであろうか。

 

 

佐々木には判らない。

周りの目を気にする。

師走。

 

一日は短く思うようで長く感じて、一週間は長く思うようで短く感じて、一ヶ月は沢山日付が在るようであっという間。一年は物凄く遠くへ見えるにも関わらず直ぐに過ぎ去る。

それもこれも、あくまでも主観に過ぎないのだが。

 

一方同居人は、美容院へ出かけた。

 

「本心に従うんだ。今、髪の色を変えたくなったの。自分の好きな色にするから。」

 

残り少なくなった2023年。

同居人による自分から自分へのご褒美だ。

 

一年間、生きることが出来たから。

 

外に出るのが怖くて、動きたくても動けなくて。最後に美容院へ行った日から可成の期間が経っていた。

 

突然思い立ったらしく、云うなりすぐさま行動へ移した。上げられなかった重い腰。少しながら同居人の成長を感じられる。

 

音符が付くほど嬉しそうに帰ってきて、見せびらかすようにクルクルと回って。

 

ところが問題はその後だった。

 

「これ、周りからどう思われるだろう。」

 

調子に乗っていると思うだろうか。イメチェンして何か心境の変化でもライブイベントでもあったと考えられるだろうか。派手にしたと怒られるだろうか。目立つだろうか。

 

瞬間恐怖が襲ったらしい。

 

人間は何故周りの目ばかりを気にするのだろうか。目を気にしないで生きる、と頭では決めても心は着いてこない。行動は急遽変えられない。

同居人が本当の意味で自由になる日は一体いつになるのであろうか。

 

 

佐々木には判らない。

メールを贈る。続

満月はどんどん欠け始める。

時間は止まってくれやしない。

 

一か八かと出した、ネット上の。それも少ししか繋がりの無かった友人。

 

「私は貴方の記憶にはもう居ないかもしれません。しかしながら、あの時助けられていたことを、救われ続けていたことを私は一度たりとも忘れたことは無く、大変遅くなりましたが深く感謝申し上げます。」

 

何とも驚くことにそのメールの返信は夜。つまりは同居人が就寝している間に返ってきていたのである。

 

まさか返信が来るとは思ってもいなかったのだ。

自己満足の、一方通行のメールであったから。

 

「こんばんは。偶然にも丁度貴方のことを思い出していたんです。」

 

覚えてくれていた。

その事実だけで同居人は心の温度が確かに上昇することを感じ取れた。

 

「当時珍しいデザインの空き缶をコレクションしていて。その空き缶を眺めながら、あぁあの時貴方と連絡を取っていたなぁ、と考えていました。」

 

きっとお世辞を返してくれたに過ぎないのだろう。

 

それでも記憶に残って、更には同居人自身にとって自分と紐付けるものが存在することが嬉しかったようで。

 

「喜ばせることが上手いなぁ。」

 

そう同居人は呟いて、嬉しそうに口元に弧を描いていた。

 

小さな繋がり。それが美談として思い出に残ればそれに越したことは無い。けれども同居人は悪いことが残るのだ。どうしても悪い記憶がフラッシュバックするのだ。そうして哀しくも嬉しいことは、次々と忘れていくらしい。嬉しいこと日記は、その為にも在る。

 

どうして人間は残したい記憶の選別が出来ないのだろう。感覚や雰囲気だけではなく、映像のように一言一句、周囲の情景、温度、音。残したいことを鮮明に思い出せないのだろう。心から消したいものを消せないのだろう。

 

 

佐々木には判らない。

夜にくつろぐ。

紅茶を飲み、ピアノの音源を聴きながら、日記をつける。

 

同居人のナイトルーティンは出来上がりつつあった。

 

ある時リラックス出来るものを探せ、と助言を受けてからというものの同居人は様々なものを試した。

 

アロマオイル。否、違う。眠気を誘う香りはあれどリラックスというより手持ち無沙汰でソワソワと落ち着かないのだ。

 

好きなアーティストの音楽。否、違う。歌声が頭に響いて聞こえるのだ。そして好きが故にかえって高揚して眠れなくなるだろう。

 

絵を描くこと。否、違う。確かに気分は払拭され楽しい気分にはなる。だがそこに没頭して離れられなくなる集中力が付きまとうのである。

 

どれも素晴らしいことで、内容に不備など存在はしない。ただ同居人にとっての夜には合わなかっただけなのだ。時間さえ異なれば、それは打って変わって魅力的なものへ変化する。

 

人間は計り知れない。

多様な人間が居るからこそ苦しめられることもあるが、生み出された沢山のものに助けられている。

 

様々な香りのアロマオイルも、奏でられる歌声も、絵の具も筆もスケッチブックも。それに加えて沢山の味の茶葉も、ピアノも、ノートブックも。全ては人間が生んでいるのだ。

 

この世は可能性に溢れかえっているものばかりだ。それなのに使い方を間違えれば凶器になりうるものもこの世には存在する。何故人間は使い方を誤るのだろう。

そもそも同居人が正しく使っているものも、製作者が意図した使い方と合っているとは限らない。

生み出した親にしか、判らない。

 

 

佐々木には判らない。

未来を恐れる。

「フラワーアレンジメントの教室、お試しで良いから行ってみないかな。」

 

同居人は心の病気だ。

外出を避ける。

 

「人は多くないし、時間も短いよ。それに人と人とのお喋りは少なくて、席もバラバラ。皆黙々と自分のことに集中して、作業をしているよ。行ってみたらどうだろうか。」

 

どうやら同居人のために人数や時間を考慮し、さらには同居人が好む物作りで息抜きになれば、と提案してくれたらしい。

 

こんな有難い話は無い。

 

当然初めは同居人も喜んでいた。

「こんな自分でも行けるかもしれない。」

 

ところが段々不安になる。

 

突然、又は当日。急に体調不良になったらどうする。予約していたのにキャンセルしてしまうことになるだろう。花が余って迷惑がかかる。

 

初めてで、判らないことだらけで、何度教えを乞えば良い。先生に迷惑がかかる。

 

自分の作業が遅いせいで、周りが待つことになったらどうしてくれようか。周りに迷惑がかかる。

 

思考は止まらず駆け巡る。

一度不安と云う穴に躓くと、人間はマイナス思考の沼にハマって抜け出せなくなる。それも、水気の多い泥が詰まった深い深い沼の中へ。

 

ところが提案者は続けた。

「初めてだから出来ないのは当然だ。先生も付きっきりだし安心でしょう?終わった人から帰るから焦らなくて自分のペースで良いんだよ。」

優しく、肩をポン、と置いた。

 

「上手く出来なければどうするの?」

 

「他人と比較する必要は無いよ。」

 

「それでも比較して落ち込んでしまいそうなんだ。」

 

「自分が楽しむことを第一に考えようよ。」

 

「誰のために作れば良いの。」

 

「自分のため。自分が好きなようにすれば良いの。本心の赴くまま。」

 

それを聞いた同居人は考えて、考えて、考えた。

 

「人に渡しても良いかな。渡したい人が居るの。それは誰かの為じゃない。自分がしたいと思った、本心の赴いた結果。そうだよね。それだったら、良いかな?」

 

「勿論良いよ。」

 

「ねぇ、」

 

「うん。他には?」

 

「やりたい。フラワーアレンジメント。」

 

同居人は、否、人間は迷惑をかけることを何故極端にも怖がるのだろうか。未来を恐れるのだろうか。

それは未知の塊そのものだからだろうか。

 

 

佐々木には判らない。

日記をつける。

時は遡り、三ヶ月前の出来事。

 

「嬉しいこと日記をつけてみない?」

そう提案された。

 

以前数年もののそこそこ良い日記帳を購入し、意気込みながら付け始めたは良いものの、そう長くは続かなかった。

 

その経験があってからか同居人は「日記は自分に不向き。継続出来ないものである。」と決めつけ、その日記帳は奥底へ仕舞い込む形となった。

 

ところがその提案は続いた。

「嬉しいこと日記はね、数行でも良いの。小さな事でも良いの。無い日は、無い。それでも良いの。」

 

同居人は問う。

「何でも良いの?」

 

「そう。空が綺麗だった。お茶が美味しく感じた。何でも良いの。身体がキツイ日、心が辛い日は書かなくて良い。義務化しなくて良いの。」

それが解答だった。

 

書かなくても良いのであれば、と。

 

そうイヤイヤ始めた嬉しいこと日記は、驚くべきことに本日で三ヶ月を超えた。

 

絶対につけなくてはならないという強制感の無さや、沢山書かなくて良いというラクな気持ち。オマケに洒落たハードカバーでは無く、ペラペラの安物ノート。

 

それが同居人にとっては気楽に出来るものであったのだろう。

 

「初めは何も無かった。こんなことを嬉しいにカウントして良いのかも判らなかった。ひとつずつこれは嬉しいことなのか確認していたんただ。そうしたら少しずつ書くことが増えていった。」

 

三ヶ月間。

 

「ねぇ、今日は九個も嬉しいと思えたことがあったよ。」

 

最も近くで見ていた者として、こればかりは褒め讃えたい。ずっとずっと三日坊主の同居人であったから。

 

これが何時まで続いてくれるのか。嬉しいという感情を見失わないで続けられるのか。

 

 

佐々木には判らない。