ヒト故に、

佐々木は佐々木で在り、ヒトでは無い。

日記をつける。

時は遡り、三ヶ月前の出来事。

 

「嬉しいこと日記をつけてみない?」

そう提案された。

 

以前数年もののそこそこ良い日記帳を購入し、意気込みながら付け始めたは良いものの、そう長くは続かなかった。

 

その経験があってからか同居人は「日記は自分に不向き。継続出来ないものである。」と決めつけ、その日記帳は奥底へ仕舞い込む形となった。

 

ところがその提案は続いた。

「嬉しいこと日記はね、数行でも良いの。小さな事でも良いの。無い日は、無い。それでも良いの。」

 

同居人は問う。

「何でも良いの?」

 

「そう。空が綺麗だった。お茶が美味しく感じた。何でも良いの。身体がキツイ日、心が辛い日は書かなくて良い。義務化しなくて良いの。」

それが解答だった。

 

書かなくても良いのであれば、と。

 

そうイヤイヤ始めた嬉しいこと日記は、驚くべきことに本日で三ヶ月を超えた。

 

絶対につけなくてはならないという強制感の無さや、沢山書かなくて良いというラクな気持ち。オマケに洒落たハードカバーでは無く、ペラペラの安物ノート。

 

それが同居人にとっては気楽に出来るものであったのだろう。

 

「初めは何も無かった。こんなことを嬉しいにカウントして良いのかも判らなかった。ひとつずつこれは嬉しいことなのか確認していたんただ。そうしたら少しずつ書くことが増えていった。」

 

三ヶ月間。

 

「ねぇ、今日は九個も嬉しいと思えたことがあったよ。」

 

最も近くで見ていた者として、こればかりは褒め讃えたい。ずっとずっと三日坊主の同居人であったから。

 

これが何時まで続いてくれるのか。嬉しいという感情を見失わないで続けられるのか。

 

 

佐々木には判らない。