ヒト故に、

佐々木は佐々木で在り、ヒトでは無い。

メールを贈る。続

満月はどんどん欠け始める。

時間は止まってくれやしない。

 

一か八かと出した、ネット上の。それも少ししか繋がりの無かった友人。

 

「私は貴方の記憶にはもう居ないかもしれません。しかしながら、あの時助けられていたことを、救われ続けていたことを私は一度たりとも忘れたことは無く、大変遅くなりましたが深く感謝申し上げます。」

 

何とも驚くことにそのメールの返信は夜。つまりは同居人が就寝している間に返ってきていたのである。

 

まさか返信が来るとは思ってもいなかったのだ。

自己満足の、一方通行のメールであったから。

 

「こんばんは。偶然にも丁度貴方のことを思い出していたんです。」

 

覚えてくれていた。

その事実だけで同居人は心の温度が確かに上昇することを感じ取れた。

 

「当時珍しいデザインの空き缶をコレクションしていて。その空き缶を眺めながら、あぁあの時貴方と連絡を取っていたなぁ、と考えていました。」

 

きっとお世辞を返してくれたに過ぎないのだろう。

 

それでも記憶に残って、更には同居人自身にとって自分と紐付けるものが存在することが嬉しかったようで。

 

「喜ばせることが上手いなぁ。」

 

そう同居人は呟いて、嬉しそうに口元に弧を描いていた。

 

小さな繋がり。それが美談として思い出に残ればそれに越したことは無い。けれども同居人は悪いことが残るのだ。どうしても悪い記憶がフラッシュバックするのだ。そうして哀しくも嬉しいことは、次々と忘れていくらしい。嬉しいこと日記は、その為にも在る。

 

どうして人間は残したい記憶の選別が出来ないのだろう。感覚や雰囲気だけではなく、映像のように一言一句、周囲の情景、温度、音。残したいことを鮮明に思い出せないのだろう。心から消したいものを消せないのだろう。

 

 

佐々木には判らない。